1977年 メルコム80

生まれて初めて触れたコンピュータ、餓鬼のころ大好きだったTV番組”なぞの円盤UFO”のオープニングで見たIBMゴルフボールタイプライターに感動した。 プログラムの入力方法は今のそれとずいぶん違い、穿孔テープやカードリーダが主だった。 あらかじめ数百枚のマークセンスカードに鉛筆で記載し、カードリーダで読み込んだ、電源を入れると”ブウーン”の音から始まり、”ウインウインウイン・・・・・、スコン、スコン・・・・ずいぶんと騒々しい部屋だったが、見てるだけで楽しい。
餓鬼の頃イメージした未来のかっこいい映像がそこにあった。プログラムのロードが終わり、コマンドをキーボードで打つと、 しばらくして、ゴルフボールに返事が返ってくる ・・・未来だった。

1978年 TK80BS+自作CPUボード

TK80BSは日本で始めてBASICが走る画期的なボードコンピュータだった。
しかし、30年前の本体価格\138,000は私にとって痛さを遙かに通り超し、食事制限を余儀なくされるモノだったと記憶している。 さらに大きな問題は本体ボードにCPUが実装されてないためボード単独で目的のベーシックは走らないのである。
お金もちの方々は既発売の価格\88,500のTK80と合体し、16進キーボードでF000番地にプログラムカウンタを変更すれば良かったのだが、合体費用が無い私は、ベーシックプログラムが格納されている F000番地にプログラムカウンタを変更するためのハードウエアをフリー基板にでっち上げる必要があった。
方法はアドレスの0番地~3番地に プログラム jmp f000 を埋め込み、TK80と同じ働きを実現させます。製作したダイオードROMの内容はh'c3 h'00 h'f0の3バイト、リセットボタンオン
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初めてベーシックのスタート画面が13インチの小さなTVに映った時の感動で今の仕事があるような気がします。

記憶に残る作成プログラム
今でいうところのデータベース的電話帳

名前入力で電話番号を表示できるものだったが、カセットテープからプログラムをロードしなくてはならず、(転送速度はあっと驚く400bps)番号が表示されるに10分前後の時間が必要、多くの友人がいるわけでもなく、手帳を見た方がどれほど早かったか。

スカッシュゲーム

ゲーセンでそのころよく見かけたゲーム。壁で反射してきたボールをラケットで打ち返すゲーム。プログラムが増えるに従い、ボールの速度が低下した。

デジタル録音機

理論上現在のipodと同じモノ?再生速度をプログラムで可変できた。

1980年 TK85 MPU:8085

アセンブラの勉強用として購入 5万円前後と記憶。 手書きのアセンブラとマシン語表を参照しがらの人力コンパイル+16進キー入力・・・・。 根気と恐ろしく手間のかかる、とんでもない作業だった。コードが出来上がった後のデバッグ・・若くないとできません。 現在、クリック一瞬でコンパイルと転送が同時に完了する環境があたりまえ、当時たぶん数千万円の環境が今はほぼおまけ入手できる。 このころNEC PC9800 シリーズが発売されるが、高嶺の花、触れる事ができるためにはさらに数年の歳月が必要だった。 この間ハードロジックの世界から離れ、泥臭いアナログ回路の海にどっぷり浸かり、もがき懊悩の日々を過ごしていました。

1986年~88年 PC98VM2  仕事で使ったMPU:Z80

色々な初めてに出会った、私にとってとても大きな1台だったと思う。
会社で購入、当時プリンター込みで\50万くらいしたと記憶している、私にとって待ちに待ったパーソナルコンピュータ第1号機だった。
ワープロ”一太郎”、表計算”マルチプラン”との出会い感激、未来との出会いだった。
初めて触れたICE(Z80用インサーキットエミュレータ)、取説を見てア然 ・・・ソースファイル・・エディター・・・コーディング・・・コンパイル・・・・ディストネーション・・・・・。 なんのこっちゃ~・・・カタカナだらけの取説だった。
現在の日本、これらのカタカナの多くは日本語として使える言語だが、86年当時、私には呪いのような、ただの文字列だった。
会社にプログラム自社開発の必要性を訴え購入してもらったICEとパソコン、理解できませ~んでは済まされません。 エディターがEDLINと分かるまでに数日必要だった私にとって、何とか動かせるレベルになるまでには
・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◯〒*▲♂?¥♀・・・睡眠不足が続きました。

1988年~98年 仕事で使ったMPU:8085 H8

ハードウエアとソフトウエアが数ヶ月毎に進歩た。286...386...486...486DX...ペンティアム...P2...P3. たぶん7-8世代パソコンが変わったと思う。 パソコンが変わる毎にワープロがサクサク動き、進歩が実感できた。 (最近、ワープロではハードウエアの進化を実感できないくらい十分速くなった) 高嶺の花だったパソコンはほとんど文房具化し、仕事のスタイルが大きく変化する十年だった。

1995年 FUJITU DISKPOWER 486 100MHz 64M

初めて自分のお金で購入したパソコン WIN95でワードがサクサク動き、15インチモニター付きで¥16万也、TTL世代の私にとって、100MHzでロジックが動く事が不思議だった、ほとんどマイクロ波の世界である。 その後、クロックアップしたが、今は電源を入れられる事もなく、クローゼットの中で爆睡中たぶん永眠。

2006年、破棄しました。

1998年 EPSON ENDEAVER P2 350MHz 128M

1999年 東芝 ダイナブック P2 450MHz 128M

2001年 SONY VAIO P3 800MHz 256M

2002年 DELL DIMENSION P4 1.6GHz 256M

2004年 DELL INSPRON 8600 PM 1.3GMHz 512M

2009年 SONY VAIO PD 3GHz 2G

マイコンが生まれたころ、ハードウエアもソフトウエアも1人の電気担当が設計し、とてもシステムとは呼べないかも知れないが、1つの装置は1人の人間で管理できる・・・その程度の世界だったように思う、何かトラブルがあっても容易に対応できた。
しかし今、巨大になったシステム全体を正確に理解し管理できる人間は存在しない。小さな部品(module)の集合体である巨大なシステムはインターフェース仕様という呪文で区切られているだけで、モジュール間ではお互い何をやっているか分からない。分かる必要もない。なまじっか分かると怖くて仕事にならない・・・。
設計上の呪文が完璧であれば、事故は無いのかもしれないが、世の中に完璧はあり得ない。そんな装置が道を走り、空を飛び、巨大なエネルギーを制御している。
コンピュータを含めた機械音痴と自覚している方々はどんな装置に対しても、頭のいい人が考えているのだから・・・と安心しているのかも知れないが、それぞれのエンジニアは全体を理解しているのではなく、自分の担当部分の知識があるだけである。
また全体を管理しているSE(システムエンジニア)と呼ばれている人達は、モジュールの中で何をやってるかの詳細を理解してない。
この事は患者と医者の関係ににている。外科医、内科医、歯医者、脳外科医、それぞれの医者は自分の処方で薬を患者に与えるが、患者がそれぞれの薬を同時に服用したとき、何が起きるかは、正確には誰も分かってはいない。
環境基準もたぶん同じであろう。・・・・怖い世の中です。

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